2016年12月14日水曜日

【歌詞表現】桜井和寿や新藤晴一の目になって世界を見てみたいと思ってしまう






エッセイが好きだ。

面白いエッセイを書く人というのは、普通にしては気づかないような目線で世の中を見る視点を持っていて、それを鮮やかに切り取っている。

たとえば僕がその辺散歩して記事書いても面白くないが、穂村弘さんがエッセイにしたらとても面白くなるようなものだ。

そこで難しい言葉を使わなくても、切り取り方や目線が面白いからこそ、他の人には真似できない独特の表現になる。

それは面白い歌詞を書く人との間にも通じる感覚で、そのことについて書いてみようと思う。









ストレートのある歌詞、じゃない歌詞




ここ何年も歌詞の世界で言われ続けてる言葉がある。


「表現が直球すぎて、含みが全くない」


よく言えば素直で誰にでも分かりやすい歌詞、ということだ。

「君がこんなに好きだから、とても会いたい」

たとえば、このような表現は「ストレートな表現」と呼べるだろう。


「落ち込まないで、ほら君は1人じゃない。同じ空を見上げよう」


以前TSUTAYAでひたすらファンキーモンキーベイビーズのベストが流れてて、ほぼ全部こんな歌だった。

というように、とても想いを素直に伝える。


では、日常の風景をちょっと違った目線で作られた歌詞はどんなものがあるだろう。


冷たい骨を晒した解体途中のビルの上を舞うムクドリ
その巨体は少しずつ時に体を啄まれ ようやく眠るのか
ポルノグラフィティ/素敵すぎてしまった


ガラスの向こうには 水玉の雲が
散らかっていた あの日まで
スピッツ/楓


日常の光景で、言われればパッと頭に思い浮かぶような情景なのに、とても詞的な表現だと思う。



表現




ストレートとストレートじゃない例を挙げてみた。それで別に優越をつけたいわけではない。

ストレートの歌詞の方がいいという人も当然いる。しかしそればかりになってしまってもいけない。それは逆も然りではある。どちらかだけになってしまってもツマラナイ。

それこそが表現者毎の個性であり、その中から自分に合う表現をする人を見つければいい。

たとえば、日常の切り取り方ひとつで、表現は無限にできる。


世界は誰にでも門を開いて待っている
平等の名の元に請求書と一緒に

Mr.Children/もっと


ひとつも難しい言葉を使ってないけれど、こんな表現は見たことがない。前半と後半との落差がちょっと短歌的だなとも思ったりした。平等を歌う歌詞はたくさんある、それでもそれを伝える上で「請求書」を引き合いにだす歌詞は見たことがない。

こうしたちょっとした視点の変化で、表現は無限に生まれる。

新藤晴一やMr.Childrenの桜井和寿は特にそうした独自の目線で世の中を見ていることが歌詞から伝わってくる。

ちなみにスピッツの草野マサムネは目線とかそういう次元でさえなく、もはや何もかもが異次元だ。


表現とは、辞書で見てみよう


表現
[名]心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化すること。また、その客観的形象としての、表情・身振り・言語・記号・造形物など。「情感を表現する」「全身で表現する」


あるコラムで心に残っていることがある。どのサイトか失念してしまって引用元が思い出せないのが恐縮だが、少し引用すると「歌詞表現とはその人らしさを表に出すものだ。だから見た時にその人と分かるような歌詞は素晴らしい」というような内容であった。

ストレートな歌詞はいきすぎると、個性も何もないものになってしまう。
そんな中で同じ「愛」とか「好き」という感情を自分なりに表すため、日夜頭を捻らせている。

僕はやっぱりそういう歌詞が好きになってしまったのである。

でも疲れるとストレートな歌詞聴きたくなるよね。








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